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2026/04/11/03:53

藤原鎌足と染谷太郎大夫時志と由井家

「相模大山縁起」、「相模大山縁起絵巻物」、

「詞林采葉妙」などより一部を抜粋します。

 

染谷太郎大夫時志は、藤原鎌足の玄孫である

藤原鎌足の先祖神、天児屋根命

東大寺別当、良弁僧正が父親

強大な経済力を有し、由井の長者

東八ケ国の総追捕使であり、関八州の統領

文武天皇より聖武天皇の時代の間、鎌倉の由井郷の出身

 

以上のことから、藤原鎌足と由井家の強い関係性、

由井郷の出身で、由井郷に長らく居住しており、

醍醐天皇と藤原家、賜源性と源頼朝と鎌倉幕府と由井家、

天児屋根命と藤原鎌足と由井家の遺伝情報の一致など

強い関係性が示唆されています。

2026/04/11/03:29

新編相模国風土記稿

新編相模国風土記稿は、天保12年に完成しました。

 

97ページに、「極楽寺の長吏」に関する記述があります。

当時から九郎右衛門のことを左衛門と呼んだり、

由井を由比と呼んだりと混同が見られますが、一部抜粋します。

 

源頼朝より長吏の配下を定めた橙状を持っていること

大永3年、鶴岡少別当から出された橙状を持っていること

長吏は、鶴岡丹きゅう役を務めていること

 

以上のことから、源頼朝公と由井家、

長吏頭として、長吏とその配下の支配を定めた橙状、

由井家による鶴岡八幡宮の支配・管理など、

 

長らく鎌倉幕府を支えてきた由井一族の存在が

強く示唆されています。

 

 

 

2026/04/11/03:12

由井家と面掛行列

「花摘御前の伝承」には面掛行列が欠かせません。

 

もともとは、鎌倉の鶴岡八幡宮で行われていた

放生会の神幸の行列の一部祭礼行事に際して

行なわれていた祭事でした。

明治初年の廃仏毀釈により、

鶴岡八幡宮から仏教的側面が排除された結果、

仏教行事である放生会を含む祭礼の形が

大きく代わり、由井家の花摘御前に関わる

面掛行列もなくなってしまいました。

 

そのため、明和5年に作成された奉納者が

坂の下の住民だったことから、その氏神の

長谷にある御霊神社に移されました。

 

このように、鎌倉時代から今も続いてる面掛行列、

それにまつわる伝説、花摘御前の伝承と、

源頼朝と花摘御前、嫡子・頼兼と長吏九郎右衛門、

由井家と鶴岡八幡宮、

 

鎌倉幕府の誕生と、源頼朝と由井家、

藤原鎌足と染谷太郎大夫時志と由井郷、

秦氏と醍醐天皇第二皇子、

非常に密接した関係性が強く示唆されます。

 

今日まで続いている事実は、軽いものではありません。

まさしく「火の無い所に煙はたたない」とは

この事かと思います。

2026/04/11/02:51

花摘御前と北条政子 その2

北条政子の嫉妬心は凄まじく、

頼朝公を独占しようとする強い欲により、

他の女性に子を産ませたと知るたびに、

家来に命じて母子ともに殺害することを繰り返していました。

この気性の荒さから、「炎の女北条政子」という

古文書が存在しています。

この古文書の45ページを抜粋します。

 

鎌倉釜利谷の長吏の娘菜摘御前を懐妊させると、

政子が母子共に殺そうとしたので、

別所の者達が伝達をつけ、

えの戸と呼ばれた、後の江戸に逃がした

 

やはり、花摘御前が源頼朝公の子を産み、

北条政子が母子ともに殺害しようとしたため、

江戸に逃がした。と明確に記されています。

 

この古文書は、明治3年生まれの三田村鳶魚が書いたもので

非常に著名な人物として知られている人物ですが、

明治時代から昭和初期でも、

源頼朝公と花摘御前、その嫡男・頼兼は

非常に話題性のある内容でした。

 

源頼朝と花摘御前、頼兼と長吏頭・由井九郎右衛門と由井家

明治時代から昭和初期まで、非常に注目されていましたが、

その後、日本は長い戦争の末に多くの古文書を失い、

昭和20年ころ、日本は敗戦し、財閥制度の廃止、

爵位や貴族の廃止、領地没収などで、

由井家は急速に衰退していくのでした。

 

2026/04/11/02:25

花摘御前と北条政子 その1

「花摘御前の伝承」は、いまも様々な古文書が残されています。

 

古来から、男女の秘事は文書に残り難いものです。

そして、北条政子の気性の荒さや、嫉妬深さなどは

様々な古文書のとおり有名な話しとなっています。

 

そのため、頼朝公が他の女性に子を産ませる事で

家来に命令して、母子ともに殺害などしていました。

 

逆に、頼朝公からすれば、可愛い我が子を守るために

北条政子から徹底的に我が子をお隠しになられ

ウソの文書などをばら撒き、欺いたともされています。

 

古文書、「日本原住民族」の112ページを抜粋します。

 

長吏(由井)九郎右衛門の娘が花摘みをして居る処を

源の頼朝に見染められたのが花摘御前となって

男児をうみ、これに頼朝の頼の字をつけた

頼兼が、北条氏に追われて武蔵江戸平川の畔へ逃げこみ

 

とあります。

この事から、長吏頭・由井九郎右衛門の娘が、

花摘御前になったこと。

 

花摘みしている処を、源頼朝公に見染められ、

嫡男・頼兼を授かったこと。

 

源頼朝公と由井家の関係性、

鎌倉幕府の軍需物資を支えた由井一族

 

これらの関係性は、ほぼ疑いようがありません。

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