インフォメーション
古文書②(写真②) 源頼朝公の挙兵と由井九郎右衛門頼兼(源頼朝公の嫡子)について
<現代語訳>
日本惣追補使である征夷大将軍の源頼朝公は、
治承四年、豆州において、国々の諸士一同の尊敬を受け挙兵した。
諸士各々は御供をし、同月二十八日、現在の神奈川県真鶴町から御船に乗り、
安房、上総、武蔵國に渡られた。
十月六日、相州鎌倉建〇桑川の辺にしばらく在陣した。
高倉院の治世の期間、頼朝公が三十四の時である。
吉凶を占うおもくじにより、同月十二日、由井の若宮八幡宮小林の郷〇〇峯へ移られ、
その後、大蔵郷に城を構えた。
長吏頭由井九郎右衛門頼兼は、長吏以下二十八番身分の者の支配、懲罰の権利を許された。
治承四年九月のことである。
源頼朝公より駿河國伊豆に領地を与えられた。(駿河國由比郷のことです)
恐れながら、源頼朝公が鎌倉で挙兵した当時からお仕えし者である。
* 後の由井九郎右衛門由緒書に繋がります
古文書①(写真①) 建長寺奉行からの依頼書
<現代語訳>
一、当寺大仏殿法皷 壱箇
一、拈華堂法皷 壱箇
右は、この度、鞭替について業務を依頼したところ、料金三十両として年数三十カ年で請け負うことになりました。
また、各別の出精により、この料金のうちから十六両を本山へ奉納致されました。
もちろん、後年に破損した際には、右の規定により鞭替をする約束であり、殊勝な心掛けです。
このため、当歳七月の祖師忌日には山内狼藉の者の取り締まりと、大太鼓の警護役を命じます。
以上、下文を通知致します。
建長寺当役 奉行
天保九年七月 由井長吏頭九郎右衛門
由井一族の歴史について その②
鎌倉時代、由井一族は源頼朝公より駿河國にも領土を与えたとされています。
事実、駿河國には由井(由比)郷が存在しました。
いつしか、由井(由比)郷は由比町となり、現在の静岡市と合併されています。
相模國の由井(由比)郷と駿河國の由井(由比)郷は密接に関わっていたと考えられています。
源頼朝公と由井一族の関係 その①
源氏の分家を意味する丸に笹竜胆を家紋とする由井一族は、源頼朝公と血縁関係にあると考えられています。
それは、、、
源頼朝公は、由井一族の頭領、由井九郎右衛門の娘、花摘御前を側妻として、
源頼朝公との間に男児・頼兼を授かったとされる花摘御前の伝承が残されています。(風土紀より)
昭和初期まで鶴岡八幡宮の例大祭とされた面掛け行列や、
その後の御霊神社における神事、面掛け行列は、
全て由井一族ゆかりの神事とされています。
由井一族の歴史について その①
由井一族は、平安時代以前から相模國鎌倉郡極楽寺村に住み続けている一族とされており、
その始祖は、醍醐天皇の第二皇子を始祖とすると考えられています。(三国長吏由来記より)
由井一族は、天皇筋の由緒正しい一族なのです。
平安時代以前は、由伊と呼ばれた時期もあったとされています。
なお、油井と由井と由比は同じ同義語であります。
また、由井一族の中からは、鎌倉氏を名乗る者も出てきています。大河ドラマ、鎌倉殿の13人からも、その関係性が伺えます。
鎌倉殿の13人の公式ホームページはこちら
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/
平安時代、相模國鎌倉郡には、極楽寺村由井(由比)郷のみが存在していました。
由井一族は、平安時代から明治時代にかけて、非常に強い勢力を誇った一族として知られています。
由井一族は、馬に装備する鞍などの皮革製品の製造や、鎌や包丁、刀などの鉄器製品の製造(鍛冶)に長けた一族として知られています。
そのため、戦で必要な馬の鞍、矢じり、刀などの武具を製造できたことで、様々な戦で重宝された一族だったと考えられています。
由井一族は、現在の鎌倉市稲村ケ崎付近を拠点にしていたと考えられています。
そのため、稲村ケ崎付近には由井(由比)郷が存在しました。
由井一族は、長らく由井ガ浜(現在の由比ガ浜)を支配した一族として考えられています。
由井ガ浜(由比ガ浜)は、現在の稲村ケ崎から材木座付近(飯島岬)までの海岸の総称とされ、
稲村ケ崎付近には由井(由比)郷があり、材木座付近には由比若宮(由比元八幡宮)と由比郷鶴岡があり、
由井ガ浜(由比ガ浜)の端と端には、由井一族ゆかりの地が散見されます。
この由比若宮は、現在の鶴岡八幡宮の起点とされており、由井一族は長らく鶴岡八幡宮の
様々な神事に関わっていた一族とされています。
由井一族は、由井ガ浜(由比ガ浜)を長らく支配したことで、そこから採れた良質な砂鉄(産鉄)をもとに、タタラやタマハガネを造り、
矢じりや包丁、刀などを製造していたと考えられています。
そのため、由井一族の拠点、由井(由比)郷があった付近には、現在でも白山神社(鍛冶の神様)が
祭られています。
* 白山神社は、鎌倉の鬼門を護る鍛冶職人系の神社とされています。
由井一族と藤原鎌足は、密接な関係にあったと考えられています。
藤原鎌足は、鹿島神宮を参拝する途中、由井(由比)郷を訪れ、就寝中に霊夢を見たことにより、
護身用の鎌槍を大倉の松が岡に埋めたことにより、鎌倉と呼ばれるようになったする説が根強く存在しています。
(新編鎌倉志より)
藤原鎌足は常陸國鹿島出身とされ、鹿島では良質な砂鉄が産れました。
鎌から鍛冶が連想されますが、藤原鎌足と由井一族は、ともに鍛冶技術に優れていました。
藤原鎌足が由井(由比)郷を訪れた(新編鎌倉志より)のは、偶然では無いと考えられています。
多武峰の談山神社の祭神は鎌足ですが、翁面は摩多羅神でした。
鎌足=鍛冶=秦氏=摩多羅神=秦川勝=翁が連想されます。
源頼朝が奥州平泉征伐に出向き、日光二荒の神に祈願し、
凱旋後、堂を建て、摩多羅神を祀ったとされています。
徳川家康の死後、東照宮に祀られたのも摩多羅神でした。
藤原鎌足と由井一族、源頼朝と秦氏、そして摩多羅神、
非常に密接した関係性が伺えます。
由井一族は、秦氏と藤原鎌足、源義家、源頼朝と密接な関係にあったと考えられています。
鎌倉時代の誕生の裏には、この藤原鎌足、秦氏、源頼朝、そして由井一族が
非常に密接に関わっていたと考えられています。
* 秦氏は、朝廷の直轄領である屯倉の運営を財務官として任されていたと考えられています。
一般的には、三方を山に囲まれ、一方を海に囲まれた地形が鎌倉幕府創建に影響したと考えられていますが、
実は、相模國鎌倉群の周辺には良質な砂鉄が産れる場所が集中し、
武具の製造で長けた由井一族が拠点を設けていた事が強く影響していたと考えられています。
『鎌』は産鉄を象徴し、砂鉄が産れる由井(由比)が浜を長らく支配した由井一族、
『倉』に秦氏が関与し、由井(由比)郷で霊夢を見た藤原鎌足、
その藤原鎌足が鎌を埋めたされる大蔵の松が岡は現在の鶴岡八幡宮を指し、
長らく鶴岡八幡宮の神事を仕切っていたとされる由井一族、
鎌倉時代の誕生の裏には、この藤原鎌足、秦氏、源頼朝、そして由井一族が
非常に密接に関わっていた事が強く伺えられます。
由井一族と深い関係にあったとされる染谷太郎大夫時忠は、藤原鎌足の玄孫になります。
時忠の生誕地は、由井(由比)郷または秦野の大住郡漆窪だと考えられています。
由井の長者より
https://kamakura-mukashi.com/yui-choja/
https://www.yoritomo-japan.com/page136someya.htm
藤原氏と清和源氏
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F
https://ameblo.jp/egaochichi/entry-12651587830.html
元八幡宮(由比若宮)から杉本寺のある大蔵山に線を引き、
由井(由比)郷付近にある白山神社と鶴岡八幡宮に引いた線、これらはまさしく平行します。
これは偶然では無いと考えられています。それは、秦氏が得意とする作業、仕掛けと考えられているためです。
秦氏が奉じている八幡神の根源は矢とされています。
由井(由比)郷付近にある白山神社、由比若宮(元八幡宮)、佐助稲荷を線で結び、
現在の鶴岡八幡宮と白山神社に向かって線を結びます。
すると矢の形を成します。
佐助が谷から白山神社、由比若宮から白山神社の距離は、等しい距離となり、
これは偶然では無いと考えられています。
その理由は、秦氏の拠点、京都でも同様な構造が存在するためです。
由井(由比)郷付近の白山神社から佐助稲荷を経由して北東に線を結ぶと、
ぴったりと鍛冶ヶ谷の白山神社に至ります。
加えて白山には秦川勝が創建したとする仙福寺も存在します。
秦氏の根源とする矢、秦氏に関係する由井一族、藤原鎌足と源頼朝、
鎌倉時代の誕生の裏には、この藤原鎌足、秦氏、源頼朝、そして由井一族が
非常に密接に関わっていた事は、ほぼ疑いようがありません。
そのため、鎌倉幕府が制定された際、由井一族は源頼朝より「由井九郎右衛門由緒書」が
与えられています。
由井九郎右衛門は、由井一族の頭領であり、由緒書は身分を証明する非常に価値ある物でした。
この「由井九郎右衛門由緒書」は、弘化5年(1848年)までは由井一族の手元にあったことが
古文書や文献などによって記録として残されていますが、
実際には、摩滅にって書写された文政6年(1823年)5月16日由井九郎右衛門謹書の
由井九郎右衛門由緒書(長吏由井九郎右衛門起源由緒書)原文は、
いまも由井一族によって大切に保管・管理されています。
弘化5年以降、盗賊による盗難被害に遭った「由井九郎右衛門由緒書」の一部は、
その後、模写または偽造され、偽の由緒書として世に出回ったとされています。
鎌倉時代以降、由井一族の家紋は、現代に至るまで間、丸に笹竜胆として受け継がれています。
丸に笹竜胆は、源氏の分家を意味しています。