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長吏由井九郎右衛門起源由緒書の全文が解読されました
この度、由井一族の本家屋敷から出土された長吏由井九郎右衛門起源由緒書の
全文が解読されましたため、ご連絡致します。
一部を以下に抜粋致します。
長吏起源
明応六年(一四九七)五月十五日
第五十九代宇多天皇の第一皇子は大慈大悲の誓願があり、お身体に漆を塗って三病(ハンセン病)となられた。
このため清水寺へ参籠して祈誓なさったが、ついにその験によって無体なお姿となったため、清水寺の坂本に御所を造営しお移りになった。
これによって、(皇子もそのお住まいも)坂本御所と伝えられる。このため、第二皇子を皇位にお就かせになった。
それが醍醐天皇である。醍醐帝は聖主であり、世情は穏やかに国土安穏となり、万民は泰平を謳歌した。
しかしながら第三皇子は第一皇子を深くお憐れみになり、道心をおこして仏門にお入りになった。
第四皇子は蝉丸と申され、逢坂に御所を造り御在所となさった。
宮中に美しい娘が二人あり、今言うところの白拍子・傾城の■(字の墨抹により不明)。
その後、以下の諸職・諸道に分かれたという。
一番長吏 二番座頭 三番舞々
四番猿楽 五番陰陽師 六番壁塗
七番土鍋師 八番鋳物師 九番辻目暗
十番非人 十一番猿引 十二番鉢叩
十三番弦指 十四番石切 十五番土器師
十六番放下 十七番笠縫 十八番渡守
十九番山守 二十番藍屋 廿一番坪立
廿二番筆結 廿三番墨師 廿四番関守
廿五番鐘打 廿六番獅子舞 廿七番傀儡師
廿八番傾城屋
このほかにも諸道が多く有るが、いずれも長吏を上位とするように。
このほか盗賊・山賊・海賊など罪を負った者どもも、長吏の管理下に置くように。
右が延喜の帝(醍醐天皇)の勅宣である。
もしこの内容に背くことがあれば、三病を負った者三百三十三人がその場所の地頭の所領半分につき守護を追放し★、
残る半分は長吏が管理を行うように。
坂本御所に対し六十六ヶ国からの御年貢を奉献するように、との醍醐天皇の勅宣にしたがって、
六十六ヶ国へ一人ずつ以下の者達を長吏としてお下しになった。
(以下、各国に派遣された長吏の列記。中略)
右について、長吏を各国へお下しになったことについては、醍醐天皇の御世である
延喜元年(九〇一)より明応六年(一四九七)の今にいたるまで六百七十八年である(※計算上は五百九十六年)。
もしこのことに背く行いがあった場合は、公私にわたり長吏が処遇を決定するように。
右について、神・仏事一切の祝儀・供物などはこれを受け取るように★。
明応六年(一四九七)五月十五日
長吏由井九郎右衛門