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2021/12/02/19:47

由井一族の歴史について その①

由井一族は、平安時代以前から相模國鎌倉郡極楽寺村に住み続けている一族とされており、

その始祖は、醍醐天皇第二皇子を始祖とすると考えられています。

(三国長吏由来記および長吏起源由緒書より)

 

由井一族は、天皇家と血縁関係を有する由緒正しい一族なのです。

 

醍醐天皇第二皇子は、斎中親王とも呼ばれ、

皇室系図には、「賜源性」と記されています。

源性を賜わるとは、臣籍降下し、

源氏を称したことを意味します。

 

醍醐天皇第二皇子、清和源氏、藤原鎌足、秦氏、由井家は

非常に密接した関係である事を強く示唆しています。

 

鎌倉郡は、武蔵國に属していたこともありました。

 

平安時代以前は、由伊と呼ばれた時期もあったとされています。

なお、湯井と由伊と油井と由井と由比は、

全て同じ同義語であります。

 

また、由井一族の中からは、鎌倉氏を名乗る者も出てきています。大河ドラマ、鎌倉殿の13人からも、その関係性が伺えます。

鎌倉殿の13人の公式ホームページはこちら

https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

 

平安時代、相模國鎌倉郡には、極楽寺村由井(由比)郷のみが存在していました。

 

由井一族は、平安時代から明治時代にかけて、非常に強い勢力を誇った一族として知られています。

由井一族は、馬に装備する鞍などの皮革製品の製造や、鎌や包丁、刀などの鉄器製品の製造(鍛冶)に長けた一族として知られています。

そのため、戦で必要な馬の鞍、矢じり、刀などの武具を製造できたことで、様々な戦で重宝された一族だったと考えられています。

 

由井一族は、現在の鎌倉市稲村ケ崎付近を拠点にしていたと考えられています。

そのため、稲村ケ崎付近には由井(由比)郷が存在しました。

 

由井一族は、長らく由井ガ浜(現在の由比ガ浜)を支配していた一族として強く考えられています。

由井ガ浜は、由比浦(由井の浦)や由井丿浜とも呼ばれていました。

由井ガ浜(由比ガ浜)は、現在の稲村ケ崎から材木座付近(飯島岬)までの海岸の総称とされ、

稲村ケ崎付近には由井(由比)郷があり、材木座付近には由比若宮(由比元八幡宮)と由比郷鶴岡があり、

由井ガ浜(由比ガ浜)の端と端には、由井一族ゆかりの地が散見されます。

この由比若宮は、現在の鶴岡八幡宮の起点とされており、由井一族は長らく鶴岡八幡宮の

様々な神事に関わっていた一族とされています。

 

由井一族は、由井ガ浜(由比ガ浜)を長らく支配したことで、そこから採れた良質な砂鉄(産鉄)をもとに、タタラやタマハガネを造り、

矢じりや包丁、刀などを製造していたと考えられています。

そのため、由井一族の拠点、由井(由比)郷があった付近には、現在でも白山神社(鍛冶の神様)が

祭られています。

 

* 白山神社は、鎌倉の鬼門を護る鍛冶職人系の神社とされています。

 

 

由井一族と藤原鎌足は、密接な関係にあったと考えられています。

藤原鎌足は、鹿島神宮を参拝する途中、由井(由比)郷を訪れ、就寝中に霊夢を見たことにより、

護身用の鎌槍を大倉の松が岡に埋めたことにより、鎌倉と呼ばれるようになったする説が根強く存在しています。

(新編鎌倉志より)

 

藤原鎌足は常陸國鹿島出身とされ、鹿島では良質な砂鉄が産れました。

鎌から鍛冶が連想されますが、藤原鎌足と由井一族は、ともに鍛冶技術に優れていました。

藤原鎌足が由井(由比)郷を訪れた(新編鎌倉志より)のは、偶然では無いと考えられています。

 

多武峰の談山神社の祭神は鎌足ですが、翁面は摩多羅神でした。

鎌足=鍛冶=秦氏=摩多羅神=秦川勝=翁が連想されます。

 

源頼朝が奥州平泉征伐に出向き、日光二荒の神に祈願し、

凱旋後、堂を建て、摩多羅神を祀ったとされています。

徳川家康の死後、東照宮に祀られたのも摩多羅神でした。

 

藤原鎌足と由井一族、源頼朝と秦氏、そして摩多羅神、

非常に密接した関係性が伺えます。

 

由井一族は、秦氏と藤原鎌足、源義家、源頼朝と密接な関係にあったと考えられています。

鎌倉時代の誕生の裏には、この藤原鎌足、秦氏、源頼朝、そして由井一族が

非常に密接に関わっていたと考えられています。

 

* 秦氏は、朝廷の直轄領である屯倉の運営を財務官として任されていたと考えられています。

 

一般的には、三方を山に囲まれ、一方を海に囲まれた地形が鎌倉幕府創建に影響したと考えられていますが、

実は、相模國鎌倉群の周辺には良質な砂鉄が産れる場所が集中し、

武具の製造で長けた由井一族が拠点を設けていた事が強く影響していたと考えられています。

 

『鎌』は産鉄を象徴し、砂鉄が産れる由井(由比)が浜を長らく支配した由井一族、

『倉』に秦氏が関与し、由井(由比)郷で霊夢を見た藤原鎌足、

その藤原鎌足が鎌を埋めたされる大蔵の松が岡は現在の鶴岡八幡宮を指し、

長らく鶴岡八幡宮の神事を仕切っていたとされる由井一族、

 

鎌倉時代の誕生の裏には、この藤原鎌足、秦氏、源頼朝、そして由井一族が

非常に密接に関わっていた事が強く伺えられます。

 

由井一族と深い関係にあったとされる染谷太郎大夫時忠は、藤原鎌足の玄孫になります。

時忠の生誕地は、由井(由比)郷または秦野の大住郡漆窪だと考えられています。

 

由井の長者より

https://kamakura-mukashi.com/yui-choja/

 

https://www.yoritomo-japan.com/page136someya.htm

 

藤原氏と清和源氏

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F

 

https://ameblo.jp/egaochichi/entry-12651587830.html

 

 元八幡宮(由比若宮)から杉本寺のある大蔵山に線を引き、

由井(由比)郷付近にある白山神社と鶴岡八幡宮に引いた線、これらはまさしく平行します。

これは偶然では無いと考えられています。それは、秦氏が得意とする作業、仕掛けと考えられているためです。

 

秦氏が奉じている八幡神の根源は矢とされています。

由井(由比)郷付近にある白山神社、由比若宮(元八幡宮)、佐助稲荷を線で結び、

現在の鶴岡八幡宮と白山神社に向かって線を結びます。

 

すると矢の形を成します。

佐助が谷から白山神社、由比若宮から白山神社の距離は、等しい距離となり、

これは偶然では無いと考えられています。

 

その理由は、秦氏の拠点、京都でも同様な構造が存在するためです。

 

由井(由比)郷付近の白山神社から佐助稲荷を経由して北東に線を結ぶと、

ぴったりと鍛冶ヶ谷の白山神社に至ります。

加えて白山には秦川勝が創建したとする仙福寺も存在します。

 

秦氏の根源とする矢、秦氏に関係する由井一族、藤原鎌足と源頼朝、

 

鎌倉時代の誕生の裏には、この藤原鎌足、秦氏、源頼朝、そして由井一族が

非常に密接に関わっていた事は、ほぼ疑いようがありません。

 

 

そのため、鎌倉幕府が制定された際、由井一族は源頼朝より「由井九郎右衛門由緒書」が

与えられています。

これを「頼朝公のお墨付きの由緒書」と言います。

由井九郎右衛門は、由井一族の頭領であり、由緒書は身分を証明する非常に価値ある物でした。

この「由井九郎右衛門由緒書」は、弘化5年(1848年)までは由井一族の手元にあったことや、

天保年間、由井家に所蔵されていることが

「相模國風土記稿」などの古文書や文献などによって

明確に記録として残されていますが、

実際には、摩滅にって書写された文政6年(1823年)5月16日由井九郎右衛門謹書の

由井九郎右衛門由緒書(長吏由井九郎右衛門起源由緒書)原文は、

いまも由井一族によって大切に保管・管理されています。

弘化5年以降、盗賊による盗難被害に遭った「由井九郎右衛門由緒書」の一部は、

その後、模写または偽造され、偽の由緒書として世に出回ったとされています。

 

鎌倉時代以降、由井一族の家紋は、現代に至るまで間、丸に笹竜胆として受け継がれています。

丸に笹竜胆は、源氏の分家を意味しています。